蘇るSARSの記憶!現在新型コロナウィルスの流行しているが、SARSレベルで中国国内(北京)はどうなっていたのか

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はじめに

こんにちは、遠ざかる香りです。

現在2020年2月5日時点で新型肺炎、コロナウイルスが猛威を振るっています!

新型肺炎と言えば、私の場合、SARSを思い出してしまいます。

当時、SARSが流行していた時、私は中国北京にいました。

そこで、当時の中国国内がどのような状態だったのか

当時日本人などの留学生たちがどのような思いで過ごしていたか

思い出しながら書いていこうと思います!

 

新型コロナウィルスの情報ではなく、昔のSARSのレベルで中国国内がどうなっていたか、

中国国内(北京)のイチ留学生視点で書いていきます。

※思い出話のような感じなので、予めご了承ください。

 

今のコロナウイルスについては、皆さんご存知の通り、某教授が

「感染規模は2003年に大流行した重症急性呼吸器症候群(SARS)の10倍以上だろう」

と述べいている通り、実際流行速度はSARSの時よりずっと早いと感じられます。

すでにSARSの感染者数を超え、各国で感染者の報告が相次いでいます。

しかも、中国国内で発表されている感染者数よりも、実際は遥かに多いという話もあります。

 

では、SARSの時代はどうだったでしょうか?私は当時北京にいたので、

日本ではなく中国国内視点で書いていきます!

 

最初は中国南西辺りでよくわからない肺炎が流行している、みたいな話をぽつぽつと耳にする程度でした。

日本のテレビは映りません、新聞もまだ読めるほどの語学力はありません。

情報源はほぼ口コミのみでした。

日本の友達からのメールやネット情報もありましたが、メインは留学生同士の口コミ、講義中の教授からの共有情報でした。

留学生同士の誤情報含む様々な口コミ、講義中の教授からの最新情報の共有

この辺りの情報をもとに、各自考えて帰国するなり、様子見するなりしていました。

 

南の方で流行しているといっても、陸続きで、列車や飛行機も飛んでいるので、北京市まで到達するのも本当にはやかったです。

いよいよ、北京市内で感染者がでたと情報が出てきてからは、それはそれはヒドいものでした。

 

具体的なやばい状況

・どの講義でもSARS関連の雑談は必ず行われるように

ドコドコ大学のナニナニ教授が感染して

すでに亡くなっただの、しかも北京大学とかならわかりますが、ほとんどが知らない大学

教授の名前ともなると、北京大学でも全くわかりませんでした。

今となっては、本当にその人たちが実在して、感染していたのかさえも、もうわからないわけですが。

 

・薬局で売ってる薬で感染が防げると噂が広がり、その薬の買い占め騒動が起きる

板藍根顆粒という漢方なんてすが、察しの通り効果はありません。

ですが、当時は噂話に踊らされ、買占めする輩まで現れたんです。

私もこれは一緒の部屋に住んでた韓国人から聞きました。

試しに買いに行って、値段はさほど高くなく、

比較的飲みやすい味ではあったのですが、すぐに飲まなくなりました。

 

・日中有効病院を含むいくつかの病院では隠蔽のために感染者を救急車に乗せて、感染者の数を誤魔化す事態に

この病院は知り合いが2人入院したことがありますが、あまり良い印象はありません。

この件があったからではないですが、正直隠蔽に加担したと言われても

素直に納得してしまいます。少なくとも当時はそんな病院でした。

 

・韓国人が大量帰国しだす

もともと韓国人は数が圧倒的に多く

距離的にも、飛行機代金を考えても一番帰るのが容易なのが韓国人で

その韓国人が、凄い勢いで帰国しだしたりからといって、他の国の人たちも続けて帰国したかというと、意外とそうでもなかったです。

 

・普段はマスクなんてしない中国人がマスクしだす

ただし、人に移さないためではなく、あくまでも自分が病気にかからないようにという考えでマスクしているとのこと、

これは大学講義中に教授が言っていたことですが、これって別に中国に限らず、正直今だと日本でもこんな思考ですよね(・・;)

 

・マスクをして更にサングラスを装備していた場合、学内に入れないこともしばしば

出るときはすんなりですが、入るときに保安に止められるんですね。

まして髪が金髪ともなると保安が止める気持ちもわかりますが。

門はいくつかあって、出るときはスルーで入るときは学生証の提示を求められることがあって

そこで持ってなかったり、見た感じ怪しかったりすると

正門まで行って、そこから入るよう指示されるんです。

この正門までぐるっとまわるというのが、とても面倒でした。

マスク+サングラス+金髪は私ではなくツレの話なんですが、私達だけ入るわけにもいかず、

みんなでぐるっと正門まで遠回りしたのも、いい思い出です。

 

・非典型肺炎と名づけられ、どこもかしこも「非典」「非典」状態

SARSは中国では「非典」と言われ、今でも通じると思います。

なぜかSARS(重症急性呼吸器症候群)が中国では非典型肺炎。

しかも略して「非典」と呼ぶ謎。もう少しSARSっぽい名前でも良かったのでは?

と思いますが、まあ、でも中国っぽいですよね!

 

このような感じで、もう言い出したらキリがないくらいカオスな状態でした。

そして、とうとう大学も手を打ちました。年に2回ある長期休暇ですが、

夏の長期休暇を先に持ってきて、沈静化しているであろう役2ヶ月後に講義再開、

テストも最後に行い、そしてそのまま次の学期へ進むというもので、

私のいた大学以外でも同じ措置をとった所もあったはずです。

 

しかし特例?なのかよくわかりませんが

休み明けに戻ってくるのは強制ではなく

テストさえ受けて合格すれば単位はもらえ、次の学期へ進むことが許されていました。

なので、帰国しないで残っている人、休み明けに帰ってくる人、

テストだけ受けにギリギリで帰ってくる人など、各自で判断して行動していました。

本来は一定数休むとアウトだったのですが、この時のみ例外でした。

 

私の場合、いつ中国へ戻ったか

私の場合はなんとか沈静化しつつあったので、休み明けに復帰する選択をしました。

ですがここで問題が発生!飛行機が飛んでないんです。

中華なら飛んでましたが、何というか気持ち的に日本の飛行機がいいじゃないですか!

当時の中華航空機はちょくちょく墜落しており、なかなか乗るのに勇気が必要でした。

記憶では成田空港からのみ、日本航空、全日空が飛んでいて

しかし片道10万円というクソボッタクリ価格となっており、さすがに諦めました(違ってたらすみません)。

最終的に片道4万円くらいの成田発北京行きのユナイテッド航空を選びました。

ノースウエスト航空だと時間が遅すぎたんで、ユナイテッド航空にした記憶があります。

 

さいごに

思い返すとSARSのために大学の長期休暇がずれたり、必須科目だとしても、

テストさえ合格できれば単位をもらえたりと、大学内だけ見てもいろいろ影響を受けています。

また、マスクをしない中国人がマスクをし出したり(当時はPM2.5は騒がれていなかった)、

留学生の、特に韓国人が大量に帰国したりと

いろいろありましたが、今の武漢のように隔離されるということはなく

よくわからない薬の買い占めはあったもののマスクの買い占めはなく

帰国して検査を受けたりということもなく、新型コロナウィルスに比べると、だいぶ緩かったように思います。

 

もしも、SARSが今回の新型コロナウィルス並に脅威だったなら?

と考えるだけで恐ろしいですが、SARSの思い出はこれにておしまいです。

 

新型コロナウィルスに関しては、一刻もはやく沈静化することを願っています。

それでは、失礼します。